三宅哲平 一日目

アーティスト 三宅哲平

私は現代アートの作家をしています。平面作品と立体作品を主に作っています。あとは新しい葬送儀礼を作ったりしています。現代の日本人にとって「供養」とは何かを考えた時に、少し従来のものからアップデートしてもよいのではないかと思ったからです。実際に旧来の制度が現実にそぐわなくなってきているところもあるので、利便性とコスト的観点と精神的な観点から変えてみようと思っています。利便性の観点を少し具体的に言えば、やはり一番は無縁化の問題が挙げられます。誰も受け継ぐことがなくなった墓のことです。そういった墓は最終的には霊園や墓地が撤去することを余儀なくされ、酷い場合だと山奥の道端に不法投棄されたりします。そういうのはシステム的な歪みなので、墓も文化的に蓄積されていくような仕組みにできないかということで考えています。精神面を言えば、やはり戒名や仏教教義に基づいた葬式仏教的な側面が挙げられます。もちろんこれはすべてダメいっているわけじゃなく、もちろん長い伝統の中で培われたお葬式などはとても荘厳で故人を送り出すにはやはり優れた演出であると言えます。儀礼というのは基本的に形式的なものなので、その形に必然性はありません。しかし必然性がないが故に慣習や伝統が強い意味を持ちます。その結果それが時代に合っていなくてもまかり通る場合が多いです。でも厳密にはその時代によって供養というのも変化していくはずです。僕が総じて嫌いなのはそうした根本を見ずに、伝統や慣習に盲従し金儲け主義になっていることです。伝統の良い部分はもちろん残していき、合わなくなった部分は変えていってもよいというのが僕のスタンスです。     引っ越してくる前は市川市の2Kのアパートで制作をしていました。船橋法典という駅で西船橋から一駅ですが改札を出たら馬糞の匂いが漂うベッドタウンでした。風向きによってたまにですけどね。中山競馬場があるところで、日曜日になると言い方悪いですが小汚いおじさまたちがプラットホームにごった返します。法典市民の唯一の憩いの場は線路沿いにある法典の湯というスーパー銭湯で、どこ行っても人がいないと思ったらほぼ全員法典の湯に集まってイモ洗い状態で広い座敷で昼から酒盛りという平和な街です。駅前のスーパーのワイズマートが品質悪いのに値段高くてはやくロピアとかに駆逐してほしいと願ったものでした。     墨田区での暮らしはそれに比べたら断然いいです。商店街は総菜おいしいし、風景も愛着がわきます。ただ食べ物は揚げ物以外のチョイスが欲しいのと、全体的に中華の食堂のクオリティをもうちょい上げてほしい。あとは先輩に連れられて居酒屋に行きますが、居酒屋文化は魅力的です。下町ハイボールというのが墨田区発祥らしく、秘伝の味は店オリジナルで微妙に違います。配合は明かされることはありません。お気に入りのお店を見つけるのも楽しいです。だから不便はそんなにないですね。強いて言えば仕事柄ホームセンターよく行きますが、オリンピック高い。高齢者が多いのをいいことに。。あとは後ろから入るとプラ製のボックス類の品ぞろえが異常にいい。プラ製のボックスそんなラインナップいるのかよと疑問に思いますが、プラ製のボックスが欲しくなったらオリンピックかアマゾンを推奨します。     特に隣人との関係はあまりないけど、ずっと前インパクトで昼間にゴリゴリ棚を取り付けていたらお隣さんに怒られたくらいです。「今何時だと思ってんだ!!」とブチ切れられましたが、その時間がお昼の3時で一体何時ならいいんだよと思ったら、お隣さんは夜勤だから昼寝る生活をしていたようで、それはまぁ怒っっても無理ないけど、それは夜中に使うセリフだよとは思いました。特に関係は悪くはないです。仲良くしてますよ。     引っ越しにまつわる面白い話はないです。軽トラにパンパンに詰めたら斜めに傾いてタイヤが破裂寸前だったくらいです。あれは危なかった。     日々の面白い話はなんでしょう。面白くはないんだけど、墨田に来て話を聞かない大人がたくさんいるなと実感しました。飲み屋とかでそういうのに会うと最悪です。おそらく台東区でのけ者にされたじじいが墨田にやってきたんでしょう。話聞かないのと墨田は関係ないと思うけど、正直そういう老害的な人多いと隣人づきあいしたいとは思わなくなっちゃう。しかし余裕のある年の取り方というのはおそらく予想以上に難しいのでしょう。時代に残されていく人間は自分の時代にしがみつかないと生きていけないのかもしれません。一方、墨田区の若い人たちは何かやろうとしてたりしていい人が多い印象かも。    暮らしで一番大事なものは、衣食住です。あと市民であることです。

今日の質問のテーマ「引っ越してきたあなたと暮らしについて」

 

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